ネットが可能にしたリモート ボランティア

今回の震災では、ボランティア活動においてもインターネットや携帯電話などの IT ツールが活用された点に注目したい。名前も知らぬ人同士がネットを通じてつながり、被災地の支援に当たった。

2012 年 5 月 18 日掲載

オーストラリアで東日本大震災のニュースを知る

気仙沼の復興商店街(2012 年 2 月 2 日撮影)。寿司店や美容室、コロッケ屋などがプレハブの仮店舗で元気に営業している。

 東日本大震災による甚大な被害を受けた地域の 1 つに、宮城県気仙沼市がある。津波による気仙沼市の浸水面積は全市の 5.6%。都市計画区域ならば 20.5% が浸水した。特に住宅や商店、工場など集中する中心地域の被害が大きく、全人口約 74000 人の 1.1% に当たる 800 人以上が亡くなられている。

 2012 年 2 月頭、復興が進む気仙沼市の復興商店街で、筆者らは 1 人の女性にお話をうかがうことができた。彼女は、2011 年 3 月から 9 ヶ月間に渡って、気仙沼を始めとする被災地のためにボランティア活動を行ってきた。だが、実は彼女が気仙沼を訪れたのは、この時が最初だった。活動のすべては、遠く離れたオーストラリアで行われたのである。

 静岡県出身のウィルソン ナオミさん(Twitter アカウント:@nao73714)は、神奈川で看護士として働いている時に、オーストラリア人の夫と出会い結婚、2009 年からオーストラリア西海岸のパースに住む。世界一美しい都市とも言われるパースは、高齢者らも多く住み、福祉事業が充実していることでも知られる。元看護士のウィルソンさんも、訪問介護の仕事に就いている。

 2011 年 3 月 11 日(金)に東日本大震災が起こった時も、ウィルソンさんはいつも通りパースで働いていた。震災のニュースに衝撃を受けた彼女は、すぐさま日本にいる友人の無事を電話やメールで確認しようとした。当日電話は通じなかったが、日本国内からメールでの返信はあった。ちなみに、日本国内ではメールが不通でも、オーストラリアのウィルソンさんとはメールのやり取りができたということもあったそうだ。翌日以降、オーストラリアからなら電話も通じ、幸い友人達はみな無事だとわかった。

 友人らの安否が確認できると、次にウィルソンさんが心配したのは病院や避難所の状況だった。災害時、大きな病院は比較的援助も受けやすいが、小規模の病院や在宅患者を抱える世帯は大変に苦労することが、看護士としての経験上わかっていたからである。1995 年 1 月の阪神淡路大震災の時にまだ大阪日赤の看護学生だったウィルソンさんは、十分な支援活動をできなかったという悔いが残っていた。次に災害が起こった時こそもっと支援したいと願っていたが、いざ大災害が起こってみると、自分は日本から遠く離れたオーストラリアにいる。はたして何ができるだろうか?

日本国内のスタッフと協力して医療備品を被災地に送り届ける

 3 月いっぱい、ウィルソンさんはブログなどで日本国内の情報収集と募金活動に駆け回っていた。看護士として現地に駆けつけたい気持ちは強かったが、どうしても短期間の支援活動になってしまう。それよりは、日本への渡航費用を寄付に宛てた方がよいと考えた。

 翌 4 月頭、たまたま見かけた日本ユニバーサルデザイン研究機構(被災地への物資支援を行っていた)の Facebook ページで、ある栄養剤が被災地において不足しているのを知る。それは米 Abbott(アボット)社の「エンシュア」という経口・経腸栄養剤である。手術直後や寝たきり状態の患者など、胃に直接栄養剤をチューブで送り込まなければならないケースだと、エンシュアの不足はそのまま生命の危機につながる。震災によって日本国内の製造工場が被害を受けたため、被災地では数万本単位での供給不足状態に陥っていた。

 ウィルソンさんが訪問看護していた、脳性麻痺のオーストラリア人もエンシュアを利用していた。彼に「僕の分のエンシュアも日本の被災地に送ってあげてよ」と言われたことが、ウィルソンさんが行動を起こすきっかけになった。

 それまでのウィルソンさんは、日常的に IT ツールを活用していたわけではない。自分のブログもなければ、Twitter も Facebook もしていなかった。

 「オーストラリアにやって来て 3 年間にやり取りしたメールが全部で 200 通程度でした」と笑う。

 まず、ウィルソンさんは、知り合いの日本人ら十数人にエンシュア購入への協力を呼びかけるメールを送った。そのメールはあちこちに転送され、2 週間で 100 人以上から 100 万円もの寄付が集まった。日本では医師の処方箋がないとエンシュアを購入できないが、オーストラリアでは栄養食品として一般にも販売されている。無事、寄付金でエンシュアを購入して、被災地に送り届けることができた。

 5 月半ばになると、LOTS という団体がエンシュアを探していることを知る。LOTS は、よしもとのお笑いコンビ「大蛇が村にやってきた」の富山泰庸が主宰している、災害支援プロジェクトである。ウィルソンさんと LOTS のスタッフは協力して陸前高田などの病院へエンシュアを送り届けた。

 やがて、ウィルソンさんらは、医療従事者向けのマッチングサイトを開設していた学会研究会 jp の担当者と知り合い、被災地の病院に対する支援を依頼される。これらの病院では、医療器具や医薬品から、机や椅子、ベッドといった什器までさまざまな物資が不足していた。例えば、被災地の病院の 1 つ、気仙沼の猪苗代病院も物資の不足に悩まされていた。猪苗代病院は病床数 60 の中規模病院で、気仙沼市の中心部にある。震災時の津波によって 1 階部分は瓦礫だらけになり、50 名ほどいた患者の半数は避難所に移らなければならなかった。病院職員らは必死に瓦礫を片付け、診療などの業務も何とか続けていたが、婦長の畠山昌子さんらは、医薬品を入手するため遠方の薬局に買い出しに行くこともしばしばだった。

 支援物資はたんに種類と量が多ければよいというものではない。必要としている人に、必要な物資をきちんと届ける必要がある。それこそ灰皿 1 個を寄付したいという人もいるわけで、これを被災地側ですべて処理しようとすると、大変なことになってしまうのは明らかだ。特に、医療備品の割り振りについては、専門知識が欠かせない。元看護士のウィルソンさんは、医療備品の知識があり、何を届ければよいかを判断できたため、自然と医療関連施設などへの支援において司令塔的役割を果たすようになった。

1 万通のメールが人の善意をつないだ

2011 年 7 月頃に行われた、ウィルソンさんと草加市役所とのやり取り。車椅子を始め、たくさんの医療備品が日本各地から被災地の病院へと送られた。

 では、どのようにして、支援物資のマッチングが行われたのか?

 特別な IT ツールが使われたわけではない。彼女が使ったのは、Gmail と電話、Twitter である。

 猪苗代病院の畠山さんなど、病院側の窓口となる人に必要な物資を尋ね、その情報を LOTS のメーリングリストやブログで告知したり、Twitter 経由で知り合った支援者に流したりする。過剰に物資が集まって被災地が混乱するのを避けるため、情報を不特定多数に流さないように注意を払った。物資提供の申し出があると、Google マップを使って提供者の位置を確認。現地入りしているメンバーらの大まかな居場所を Twitter でつかみ、都合がよさそうなメンバーにメールで連絡を取り、引き取りを依頼する。現地入りしたメンバーやボランティアからフィードバックされる情報もとても重要なものとなった。

 「スタッフが『どうしてウィルソンさんは僕らの居場所がわかるの!? 監視カメラでも付けてるんじゃないの?!』と驚いてましたね(笑)」

 1 つの案件に付き、だいたい 10〜20 通ほどのメールのやり取りが行われた。気仙沼以外の地域も担当していたため、ウィルソンさんは多い時で 1 日 100 通以上のメールをやり取りすることもあったという。

 このマッチングに際して、活用したのが Gmail だ。全文検索やメッセージに印を付けるスター、メッセージが案件ごとに自動的にまとめられるスレッド、メッセージを分類するためのラベルなどの機能は、膨大な量の情報整理を行う上で大いに役立ったという。しかし、表計算やデータベースなどのツールはあえて使わなかった。

 「リアルタイムに状況が動いており、提供者への返信に 2 日もかかると別のところへ送られてしまうこともあったんです。そのため、必ず 1 日以内には私が判断してメールで連絡するようにしていました」

 ウィルソンさんには訪問介護の仕事があり、さらに 3 歳になるお子さんの世話、その他の家事もこなさなければならない。就寝前や仕事の隙間時間を活用して、スマートフォンやパソコンからメールを送り続けた。物資を受け取った人からの感謝の言葉が届くと、それも提供者に伝えた。

 「自分の送った物資がどんな風に使われたかを提供者の方に伝えると、とても喜んでいただけます。人生経験などをお話しくださる方や、別の支援案件でも繰り返し手助けしてくださるようになった方もいらっしゃいました」

 2011 年 3 月から 12 月の間にウィルソンさんがやり取りしたメールの数は1 万通以上にも上った。この間、座って食事する暇はほとんどなかったという。

 2011 年 12 月になると、猪苗代病院の修復工事も完了し、病院業務も平常に戻った。2012 年 2 月に気仙沼を訪れたウィルソンさんを、畠山さんらは抱きしめて歓迎した。

新しいボランティアの形が生まれつつある

気仙沼の猪苗代病院は、2011 年 12 月に改修工事が完了した。

 東日本大震災では、インターネット、携帯電話といった IT が本格的に活用されたが、情報支援という新しい形のボランティア活動が広く行われた点にも注目したい。この連載の第 7 回でも、避難所名簿共有サービスに 5000 人ものボランティアが参加したエピソードを紹介している。

 ただし、IT ツールがあるだけでは不十分で、情報の交通整理ができる人材をアサインできる人的なネットワークが不可欠だ。今回の場合、医療備品などについての専門知識を備えたウィルソンさんが全体の動きを総合的に捉え、メンバーに作業を割り振ったことで、活動が円滑に回った。それでも、かなりの作業負担が、彼女を始めとする特定のメンバーに集中してしまった面はある。今後、Google+ や Facebook といったソーシャルネットワークサービスがボランティア活動を支えるプラットフォームになってくれば、作業の分担もよりスムーズに行えるようになるかもしれない。

 ツールさえあれば、人の善意は時間的、地理的な制約を超えてつながることができる。遠隔地、それこそオーストラリアから隙間時間を利用してのボランティア活動も可能になるのだ。

 今回の震災ではインターネットによってたくさんの縁が生まれた、そうウィルソンさんは語る。

 「大きな危機を誰もが経験した昨年、インターネットを通じて、身元もはっきりしない一個人の情報に、多くの方が真剣に耳を傾けてくださったのがとても印象的でした。支援先のみならず私にまで励ましのお手紙をくださった方。総額数千万円を下らない医療備品を譲渡してくださった病院や企業、亡きご家族の形見ともなる貴重な品を寄贈くださった方。Twitter での呼びかけ 1 つに答え、大阪から大船渡までソファーベッド 50 台を『ついでやしー』(ついでだから)と 3 往復して運んでくれた方。社協にもボランティア派遣を断られため自分達で努力するしかなかった猪苗代病院に、遠くから足を運んでくださったボランティアさんたちや東大生グループ。共同支援を申し出てくださり、看護師確保にも貢献いただいた医療支援団体の AMDA さん、キャンナスさん。そして、情報をつないでくださった数え切れないほどの多くの方々。不思議な縁が縁を呼び、その後の支援や人の輪に今もつながり続けています」

取材、執筆、編集 : 林信行 / 山路達也

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