3/11:Google の災害対応(クライシスレスポンス)始まる

2011 年 3 月 11 日の地震が発生した瞬間、日本の Google にはまだ災害対応チームもない状態だったが、数時間後には最初のサービスが立ち上がり、つづく週末の間にもいくつものサービスが本格始動していった。

2012 年 3 月 7 日掲載

昼過ぎまではいつも通りの金曜日

 2011 年 3 月 11 日は、多くの Google 社員にとって普通の金曜日だった。少なくとも最初の揺れが始まるまでは。

 ほとんどの社員は、東京の六本木ヒルズにある東京オフィスで、通常通りの作業を続けていた。自宅の方が効率がいいと在宅勤務をする社員もいれば、他社に営業中の社員も、講演やワークショップで会社を離れていた社員もいれば、海外に出張中だった社員もいる。マーケティングチームの一部は、翌週から始まる新しい CM 製作の追い込みに入っていたが、それもいつも通りの Google 社内の日常風景だ。

 14:46 に太平洋三陸沖で東北地方太平洋沖地震が発生。日本では観測史上最大のマグニチュード 9.0 の規模で、宮城県栗原市で最大の震度 7 の被害をもたらした。

 東京は震源地から約 400km 離れていたが数分足らずで地震が到達。震度 5 弱の揺れを観測した。それから数十分後には東北地方の湾岸部を中心に未曾有の大津波が押し寄せた。これが俗にいう東日本大震災だ。ここから日本は、まったく別の運命へと一歩を踏み出した。

 大半の Google 社員は六本木ヒルズの社内で同僚たちと共に大きな揺れを体験していたが、同じ六本木ヒルズにいても社外のカフェで打ち合わせをしていた社員は、その後、避難命令を受けてビルから退避。しばらくオフィスに戻れなかった。帰国の便がちょうど成田に着陸する寸前だった社員は、しばらく上空を旋回した後、一度は成田空港に着陸したものの、数時間待たされた後にそのまま再び飛行機が離陸し小松空港に移送された。

 建物として新しく、最新の耐震技術が導入された六本木ヒルズでは上層階でも地震の衝撃は少なく、船に乗っているような、大きいもののかなりゆっくりとした揺れとして伝わってきたため、地震に気づきながらも作業を続けている社員も大勢いた。

 その代わり、Google 社員達は、ゆっくりとした揺れがいつまでも止むことなく長時間つづいていたことで、地震の規模の大きさを感じていた。

 ウェブマスターらが集まるエリアでは、正面に見える住宅棟に吊るされた窓ふきをするゴンドラが大きく左右に振られていることに社員達が気付き、心配して眺めていた。

 階段で避難をする者もいたが、一方で会社に残って連絡や情報の収集を進めようと思う社員も大勢いた。慌て気味の社員もいれば、平静を装って飲み物を買いに行く社員もいた。

 地震に対する耐性や反応は人それぞれだったが、皆、この地震がただごとではないという認識だけは一緒だった。

地震の直後は連絡と情報収集

 置かれた状況は異なっていても、皆、揺れが一段落したらやることは同じだ。連絡そして状況の確認だ。

 社内にいた者達は、電話や携帯電話のメールで、家族や大事な人に連絡をし安否を確かめた(今回の地震では電話が混雑しかかりにくかったと言われるが、地震直後、特に固定の電話回線は比較的通じていたようだ)。社外にいた者達は、それに加えて会社にも連絡を取った。Google の社員たちは、日頃から業務でもメールや Google トークを使ったチャットで連絡を取り合っていた。このため外出中で携帯しか使えない社員でも、比較的問題なく連絡がついた。また、こうしたツールには国境が関係ない。地震の話題は間もなく海外にいた Google 社員たちにも伝わっていった。

 外出中の社員たちが今いる場所から会社を目指すか自宅に帰るかは、各人の判断に任された。そもそも、パソコンとインターネットさえあれば自宅でも職場でもほぼ同等の作業ができる社員たちにとって、どちらで作業をするかはさほど大きな問題ではなかった。

 ただ、職場にはテレビが置かれていないため、社内に残された社員たちはニュースサイトやソーシャルメディアといったインターネットの情報源から何が起きたかの全体像をつかもうとしていた。

 中でも有用だったのが利用者が多く、日本全国からリアルタイムの情報が流れてくる Twitter だ。2010 年の年頭に鳩山由紀夫元首相が始めたこともあり、震災直前の時点で日本における Twitter 利用者は 1300 万人弱に達していたと言われている。地震の多い日本では、以前から地震が起きると、Twitter で自分のところはどの程度揺れたかなどの「揺れ」情報を共有する文化が定着しつつあった。

 そんな中で起きた東日本大震災の直後には、Twitter はただ地震の「揺れ」を共有するだけでなく、災害災対応の有益な情報を伝播し、見つけるプラットフォームになった。

 地震発生から 1 分後の 14:47 には、テレビ局 NHK の広報用アカウントが地震についての注意を呼びかけ、その後も津波に対しての注意や緊急以外の電話を控えるように呼びかけた。15:10 には消防庁災害情報タイムラインが災害時運用を開始した。また大勢の人が Twitter を通して自身の被害情報や周囲の状況についてつぶやいていたので、これも重要な情報源になった。

「クライシスレスポンス」の始動

大地震から1時間46分後、Googleの特設ページ「Google Crisis Response」が立ち上がった。

 Google 社内でも、地震の発生直後から災害対応の準備が始まっていた。

 ウェブマスターの三浦健は地震の発生時、向かいの住宅棟に吊られていたゴンドラの作業員のことが気になってしょうがなかった。しかし、その後、作業員が避難したのを確認すると、「クライシスレスポンス」の準備をした方がいいのではないかと思い、マネージャーの川島優志に声をかけた。

 クライシスレスポンスは、日本語に訳せば「災害対応」。Google は 2005 年にニューオリンズを大型のハリケーン「カトリーナ」が襲った時以来、ハイチの地震や四川大地震など大型の自然災害時に安否確認サービスの提供などの「災害対応」を行ってきており、東日本大震災の少し前にもニュージーランドのクライストチャーチで起きた地震に対応したところだった。

 米国の本社には、世界中のどこで大規模災害が起きても対応する、常設のクライシスレスポンスチームがある。地震発生時、Google 本社のある米国カリフォルニア州は前日 10 日の夜 21:46 だったが、日本の大地震や津波のニュースは、クライシス レスポンスの前プロダクトマネージャー、プレム ラマスワミ(Prem Ramaswami)のもとにも伝わっていた。彼はすぐに日本の Google でもクライシスレスポンスの活動を始めてもらおうと知己があった YouTube 担当のブラッド エリス(Brad Elis)に連絡を取り、まずは安否情報確認サービスの「パーソンファインダー」を始動させるように依頼した。

 「パーソンファインダー」は 2010 年 1 月のハイチ地震から導入されたクライシスレスポンスの 1 つで、肉親や知人などの名前を入れて安否の情報を共有できるようにするサービスだ。ただし、「パーソンファインダー」は日本での稼働実績がなく、いざ試してみると「斎藤」などの旧字体で入力された名前が新字体では検索できなかったり、一般的な苗字を入れると大量に候補が表示されたりと使い勝手が悪いことはわかっていた他、それ以外にも問題がある可能性があった。しかし、平常時のように十分に試験を行い、問題点を完全に直していては公開が遅れてしまい、その間に何万件もの情報の入力機会を失ってしまう。そこで、ここでは改善できる箇所は公開後に直すという姿勢で、とりあえず早く立ち上げることを最優先させた。

 同じ頃、ウェブマスターチームの川島は、アジア地域のクライシス レスポンスサイトを担当していたウェブマスターのピーター フー(Peter Foo) を中心に最初のクライシスレスポンス特設サイトの制作を指示していた。フーは、1 階まで一時避難した社員の一人で、26 階まで徒歩で駆け戻ってきたばかりで息を切らせていたが、すぐに制作に入った。広報やマーケティングチームが内容の編集に入った。日本と米国も歩調を合わせた。

 こうして震災発生から 1 時間 46 分後の 16:32 に、東北太平洋沖地震を受けての特設サイト、「クライシスレスポンス」が立ち上がり、そのサービスの 1 つとして日本語版「パーソンファインダー」も公開された。公開されたことは、その後、17:07 には簡単な説明を添えて Google 公式ブログ 日本版でも紹介された。そこからさらに、7 時間半後の 23:50 には、最初はパソコンでしか利用できなかった「パーソンファインダー」が一般の携帯電話からも利用できるようになった。

 こうしたサービス内容の更新は逐一、Google 公式ブログ 日本版で報告され、その都度、Twitter などで大きな話題となって広がっていった。

急速に利用者を伸ばした「パーソンファインダー」

菊田さんが家族や親戚、知人と行ったメールのやり取り。緊迫した様子が伝わってくる。

 こうしたサービスは実際に使われていたのだろうか。被害のひどい地域では携帯電話の基地局が津波で流されていたり停電していたりで、インターネットにアクセスすることすらできなかった人も大勢いる。一方、サービスを大いに活用できたという人もいる。気仙沼出身で現在は千葉県在住の菊田智さんもそんな一人だ。菊田さんはエンジニアだが、現在は気仙沼を応援する「がんばろう気仙沼」というボランティア活動に注力している。

 気仙沼に大勢の親戚がいる菊田さんは、津波の後、親類にまったく連絡がつかないことに大きな不安を感じ、兄弟とメールで連絡を取りながら、さまざまな消息情報のサービスを試していた。電話を使った消息情報サービスなども開設されていたが、そもそも電話がつながらなかったこともあり、あまり役に立たなかったという。そこで菊田さんは、他の東北出身の人達同様に Twitter に親類の名前を書き込んだりして、親類の安否を確かめようとしていた。菊田さんが最初に「パーソンファインダー」を知った時は、まだ登録情報は 4600 件ほど、果たして本当にこんなものが役に立つのかと半信半疑だった。

 しかし、その後、深夜 3 時頃に、とりあえず試しに両親の名前だけ登録してみた。

 翌朝、再び「パーソンファインダー」を見たところ登録情報が 2 万 5000 人にまで増えていたのに驚いた。このペースで登録が増えるのであれば、かなり有望かもしれないと思い、さらに 40 人ほどの親類や同級生の名前を登録した。すると、湾岸部の一番被害の大きい地域に住んでいるいとこが、イタリアに出張中で被災をしていないことがわかった。13 日のことだった。菊田さんは、これをきっかけに「パーソンファインダー」の利用を、電子メールやTwitterを使って親類や同郷の他の人たちに勧め始めた。知人を一人登録すると、そのたびに取引先や同級生、遠い親戚などから反応があり、「パーソンファインダー」へ情報が追記されていった。

動ける社員達が一斉に災害支援サービスを開発し始めた

Google 社員達は、オフィス内のコタツエリアに集まって情報収集や開発作業を進めた。

 「パーソンファインダー」の公開後、「クライシスレスポンス」のページには、次々と有益な情報が追加されていった。Googleでは、そもそも社員たちが何をやるかについては、かなり個人の裁量に任されている。災害後、会社や自宅で作業できる状態にあった多くの社員達が、この緊急時に Google の強力な情報インフラを使って、被害にあっている人たちに有益な情報を届けなければならないと、思い思いに情報サービスの準備を進め始めた。

 例えばGoogle の米国本社勤務で地図関連製品を担当するシニアプロダクトマネージャの河合敬一やケビン リースら衛星/航空写真などを扱う画像チームは、被災地のより詳細な情報を提供したいと考え衛星写真を提供するGeoEye 社など各社の協力の下、被災地の衛星写真の入手及び公開の準備をはじめていた。

 YouTube のマーケティングを担当する長谷川泰は、まだサービスとして本格始動前だったYouTube Live というライブストリーミングのしくみを使って、テレビのニュース映像をインターネット経由で配信できないかと協力関係のあったテレビ局と調整に入り、23:50 には、まずはTBS News-i から配信を始めた。

 エンジニアの後藤正徳は、阪神大震災の経験もありアイディアが豊富な三浦に避難所情報の情報が必要になると聞き、ちゃんとしたリストとして提供されていなかった避難所の情報を「Google マップ」の地図にまとめはじめた。

 またマーケティング担当の根来香里、戦略事業開発マネージャーの佐藤陽一らは日本赤十字に連絡をとって義援金を募集できるしくみを用意していた。

 誰かがサービスの開発にとりかかるといって勝手に動き始め、協力してくれる人が必要な場合は、メーリングリストで募集をかけるといった形でプロジェクトが次々と立ち上がっていった。こうしたプロジェクトすべてが陽の目を浴びたわけではなく、途中まで進めた後、同僚と相談して公開しないことに決まったものもある。だが、皆、とにかく立ち止まっているわけにはいかないと、思い思いのプロジェクトの実現に向かって全力で走っている状態だった。

 ただ、この緊急時にせっかく進めたプロジェクトが、他のプロジェクトとかぶっていたりしては、労力も時間ももったいない。そこでブラッド エリスが全員の交通整理役を務め、誰が何時にどんなことを始めたかを記録し、進行中のプロジェクトやアイディアをまとめていった。

 こうした際のやりとりの多くは、メールやGoogle トークと呼ばれるチャット(文字による会話システム)で行われており、社員が自宅や出張先、米国本社など、どこにいても関わらず全員を巻き込んで進めることができた。

 しかし、その一方で、六本木ヒルズの Google 社内に残っていた社員たちの一部は、次第に一箇所に集まり始め、ここで顔をつきあわせて相談をしたり、情報収集をするようになった。

 災害関係の情報を外部に公開する役割はウェブマスターチームが担っていたこともあり、同チームの川島が社内に持ち込んだ畳の上にコタツが置かれた一角、「コタツエリア」が自然発生的に震災対応の動きをする社員達のたまり場となった。そしてそこに集まるメンバー達の中から、どんなサービスをどう展開するかを決めるコアチームが形成されていった。ただし、コアチームが全体の指揮を執っていたというわけではない。各プロジェクトは言い出した社員が自発的に進めており、コアチームはそうした動きを把握して、人的リソースがうまく配分されるように努めた。

 震災直後の徹夜作業で緊迫感と疲れが高まっていく中、Google 東京オフィスのカフェを担当するフード・チームから、心温まる夜食が振舞われたことは社員達にとって大きな励ましになった。

 サービスが 1 つ立ち上がると、それは Google の公式ブログや社員達個別の Twitter アカウントなどを通して外部へ広められた。

 この 3 月 11 日以降、この震災対応チームによって、緊急時に必要とされている情報から、被災地の支援に必要な情報、さらにはその後の被災地の復興に向けての情報支援など、30 以上の多彩なサービスが長期にわたって展開されていった。

 ただ、震災が起こった直後に、この活動がこれほどまでに広範かつ長期的なものになると予想できていた人は、まだあまりいなかったかもしれない。社員達はインターネットの情報で被災地の被害の情報を収集しながら、「とにかく何とかしなければ」という思いで必死になっていた。

取材、執筆、編集 : 林信行 / 山路達也

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